那覇・東風平オンライン礼拝説教 5月3日

2020年5月3日 オンライン礼拝 マタイの福音書6章27-34節 「明日を心配しなくてよい」

今、コロナウィルスの感染拡大によって、多くの人たちの未来が奪われています。
そのように先が見えない中で、明日の事を心配してしまうのはやむを得ない事のように思います。
けれどもイエス様はおっしゃいました。「明日のことまで心配しなくてよいのです」と今日は、何故明日を心配しなくてよいのか、その理由について3つの事を見て行きたいと思います。
I.明日を心配したところで、何の益ももたらさないから

「あなたがたのうちだれが心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」27節
明日への心配をしたところで、何の益にもならないと主は仰いました。明日への心配は、何の益ももたらさないばかりか、私たちの生活に悪影響を及ぼします。
1.明日への心配は私たちの生活からゆとりを取り去り、自分の事で精いっぱいにさせてしまいます。
2.明日への心配は今日という日をベストの状態で生き抜くエネルギーを根こそぎ奪います。
3.明日への心配は、否定的な思いを溜め込みやすい状態へと追い込みます。
けれども主は仰いました。「心配したからといって自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」
何故明日を心配しなくてよいのか:明日を心配したところで、何の益ももたらさないからです。
II.私たちの苦労はその日一日で十分であるから
「明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」34節
私たちが、今日の事だけでなく、明日の事も、あさっての事も、ずっと先の事まで重荷を背負ってしまいますと、その重荷に押しつぶされてしまい兼ねません。
私たちは、いつのまにか、「明日、こうなったらどうしよう、ああなったらどうしようか」「これから先どうなるのだろう
か。」と背負う必要のない明日への心配まで背負ってしまって、今にも重荷に押しつぶされそうになることがあるかも知れません。
けれどもイエス様は私たちが負えない重荷を無理やり負わせなさるようなお方ではなく、一日の苦労はその日の分だけで十分である。」とおっしゃっておられます。
何故明日を心配しなくてよいのか:その日一日の苦労で十分であるから
III.神様を第一として、今を生きる事を主は求めておられるから
「まず神の国と神の義を求めなさい」33節
イエス様が私たちに求めておられることは、明日を心配することではなく、 「今」というこの時を、「神様を生活の中心に据えて生きる」 ことを求めておられます。
私たちは明日を生きる事は出来ませんから今というこの時をどう生きるかによって、どのような明日を迎えるかが決まります。
イエス様は約束なさいました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」33節
私たちが今日という日を、イエス様を生活の中心に据えて生きる時、明日に必要なすべてのものは与えられると共に、明日生きるために必要な力と平安と確信に満たしてくださいます。
コロナウィルスが蔓延して私たちの明日への希望を奪い取られてしまいやすいご時世にあってもイエス様は「明日のことまで心配しなくてよいのです。」「苦労はその日その日に十分あります。」「だからまず何よりも神の国と神の義を求めなさい。」と私たちに求めておられます。
今日という日を明日の心配に時間を費やすのではなく、神様を生活の中心に据えて前進して行きましょう。
(今井)

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