2021/ 9 /12那覇・東風平礼拝/主は心の願いかなえてくださる

祝福ある生涯の秘訣③  「主は心の願いをかなえてくださる」  詩篇37篇  連続説教  (2021/9/12)

「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37篇4節 Ⅰ.心の願いがかなえられない原因

聖書ははっきりと祈りはかなえられると約束していますが、人生は、私たちが願っているように行かない事ばかりです。

厳しい現実を見るとき「心の願いがかなえられる」なんて夢物語のように感じますし、人生そんなに甘くない」と 普通私たちは思います。

祈っても聞かれないのには原因があります。

ヤコブ4章3節には「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」と記さ れています。

祈りが聞かれない原因は動機が不純であるからということです。

もし神様が、私たちが欲しいと願うものを何でも与えられるお方であったとしたら、人間はいつしかわがままにな り、怠け者になり、神様を悪用するようになるのではないでしょうか。

祈りが聞かれるなら、「宝くじを買って、1億円が与えられるようにお祈りしよう。そうしたら、あれもこれも欲しいも のが手に入る。」そのように祈っても、祈りは聞かれません。

悪い動機で祈っているからです。

Ⅱ.主を喜びとするとき、心の願いはかなえられる

「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37篇4節 この4節のみ言葉の中に神様が私たちの心の願いをかなえてくださる条件が「主を自らの喜びとする」ことである

ということが分かります。 先週学びましたように、「主を自らの喜びとする」とは神様との正しい関係の中から生み出される喜びであるということを学びました。

そのように神様との関係からくる喜びに満たされているとき、自分の快楽のために「あれも欲しい、これも欲しい」と いう思いや、御心に相反するような思いはきよめられます。 そして、神様が喜ばれる願いを心に持つことができるようになって、自分の快楽のためではなく、神様が喜ばれることが私の喜びとなり、神様の栄光を現わすことが私の心の願いとなるからです。

ジョージ・ミュラーが孤児院を設立するにあたって、彼は、祈りによって神が必要な費用を備えて下さる事を通して、 神に頼ることが無益でないことを世に 証明し、神の栄光を現わすという目標を掲げました。

彼は、孤児院を設立し、運営していくための費用を決して人に求めず神様だけに祈って求めるという信念を貫き、 彼は日記の中で、祈ったことがその日のうちに応えられた体験は3万回を越えたと証しています。

神様がジョージ・ミュラーの祈りをかなえてくださったのは、彼が悪い動機ではなく、神様の栄光のためという正し い動機を持って祈ったからでした。

私たちも主を喜びとして生きるとき、その心の動機はきよめられ、正しい動機で祈り求めることができますので、心 の願いはかなえられます。

私たちの祈りがかなえられないのは、「自分の欲望を満たすと」いう良くない動機で祈るからです。

主を自らの喜びとして歩むとき、私たちの心の動機はきよめられ、私たちの心の願いはかなえられます。 主を自らの喜びとして歩み続けましょう。

「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(今井)

私たちのこの口は/主イエスの愛で 下地優貴子姉

主に御名を賛美します。
那覇教会も、本日5月31日のペンテコステ礼拝から再開します。
念のために以下のようにII部に分けて行います。
I部:10:30~11:10 II部:11:30~12:10
どちらに出席されるかは、各自の判断にお任せ致します。来られる際には、マスクをお忘れなきようによろしくお願い致します。(今井)

2020 5 24オンライン礼拝

2020年5月24日 オンライン礼拝 マタイの福音書11章28~30節 「疲れたらイエス様のもとへ」

今日は心が疲れている人たちにイエス様が語られた28節のみことばに心を留めたいと思います。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」28節
このみことばは、当時、パリサイ人の教えによって、律法主義、禁欲主義いう重荷を負わせられて、疲れているクリスチャンがたくさんいました。

そのような背景にあってイエス様が語られられたみことばです。
I.イエス様は、疲れている人を招いておられる
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」28節
私たちの心が疲れているのに、イエス様はそれをご存じではないわけではなく、無視しておられるわけでもなく、突き放しておられるわけでもありません。

イエス様は「疲れているなら、わたしのもとに来なさい」と招いておられる、あわれみ深いお方です。
クリスチャンには心に背負っている重荷を下ろせる場所、心の疲れを吐き出して心をリフレッシュできる場所が備えらています。それがイエス様です。
もし心が疲れていたなら、静かに神様の前に一人になって祈る時を持って、心の重荷をイエス様に吐き出して、心の疲れを拭い去って頂きましょう。
II.イエス様は、一緒に歩んで重荷を負ってくださる
「あなたがたもわたしのくびきを負って」29節
くひぎは二頭の牛に牛車を引かせるときに、一緒に動けるように首に括り付けるための道具です。
イエス様は、私たちが背負っているあらゆる苦しみ、重荷、そのようなくびきのもう片側にイエス様が並んで一緒に押してくださるという意味がここに含まれています。
心が疲れ切っているときに、私たちと一緒に歩まれて、共に悩み、共に苦しんでくださり、私たちが倒れてしまわないように一緒にくびきを負ってくださるとは、なんと心強い事でしょうか。
III.イエス様は、教え、導いてくださるお方
「わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎを得ます。」29節
私たちがイエス様のもとに行くとき、イエス様は一緒に重荷を背負ってくださると共に、安らぎにつながる確かな道へと一歩、一歩教えて導いてくださるお方です。みことばを通し、聖霊の御声を通し、祈りの内に示される思いを通してイエス様は「わたしが語られた通りにするなら、たましいに安らぎを得ます」と教え、導いてくださいます。
エレミヤ書6:16にも「幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいにやすらぎを見出せ」と記されている通りです。
イエス様が教え導いて下さる道、それは幸いな道であり、たましいに安らぎを見出す道です。神様のみ心を捉えて、その道を一歩一歩、歩むときに心の中に安らぎが得られます。
もし今、様々な重荷を背負って心が疲れていたとしたら、躊躇することなく、イエス様のもとに行くなら、イエス様は一緒に重荷に背負ってくださると共に安らぎにつながる確かな道へと一歩一歩導いてくださいます。

そのときに心の疲れは癒され、魂に安らぎが与えられます。
迷わずにイエス様のもとに行き、疲れを拭い取って頂いて、心に平安を保ちながら、歩ませて頂きましょう。(今井)

ご連絡

主の御名を賛美致します。
オンラインによる礼拝を継続して行って来ましたが、今朝の礼拝から東風平教会は再開し、由美子師が司会、今井師がメッセージの奉仕のために東風平で礼拝を守っています。
那覇教会も、来週31日のペンテコステ礼拝から再開します。どうぞお忘れにならないようにお願い致します。
来週は、念のために以下のようにII部に分けて行います。
I部:10:30~11:10 II部:11:30~12:10
どちらに出席されるかは、各自の判断にお任せ致します。来られる際には、マスクをお忘れなきようによろしくお願い致します。
ユーチューブでのオンライン配信することによって、多くのメリットがありました。普段、諸事情で礼拝に出席できない方々も視聴できて良かったという声や、繰り返し視聴することが出来て良かったという方もおられ、求道者の方や、教会から数十年以上離れている方も視聴してくださったようです。

これまで教会に来られない方々へのアプローチが十分に出来ていなかった反省も踏まえて、今後、月に1回位の割合で、メッセージを録画し、ユーチューブ配信やDVDを作成して、教会に来られない方々へのフォローアップをして行きたく願っています。

那覇・東風平オンライン礼拝説教 5月3日

2020年5月3日 オンライン礼拝 マタイの福音書6章27-34節 「明日を心配しなくてよい」

今、コロナウィルスの感染拡大によって、多くの人たちの未来が奪われています。
そのように先が見えない中で、明日の事を心配してしまうのはやむを得ない事のように思います。
けれどもイエス様はおっしゃいました。「明日のことまで心配しなくてよいのです」と今日は、何故明日を心配しなくてよいのか、その理由について3つの事を見て行きたいと思います。
I.明日を心配したところで、何の益ももたらさないから

「あなたがたのうちだれが心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」27節
明日への心配をしたところで、何の益にもならないと主は仰いました。明日への心配は、何の益ももたらさないばかりか、私たちの生活に悪影響を及ぼします。
1.明日への心配は私たちの生活からゆとりを取り去り、自分の事で精いっぱいにさせてしまいます。
2.明日への心配は今日という日をベストの状態で生き抜くエネルギーを根こそぎ奪います。
3.明日への心配は、否定的な思いを溜め込みやすい状態へと追い込みます。
けれども主は仰いました。「心配したからといって自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」
何故明日を心配しなくてよいのか:明日を心配したところで、何の益ももたらさないからです。
II.私たちの苦労はその日一日で十分であるから
「明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」34節
私たちが、今日の事だけでなく、明日の事も、あさっての事も、ずっと先の事まで重荷を背負ってしまいますと、その重荷に押しつぶされてしまい兼ねません。
私たちは、いつのまにか、「明日、こうなったらどうしよう、ああなったらどうしようか」「これから先どうなるのだろう
か。」と背負う必要のない明日への心配まで背負ってしまって、今にも重荷に押しつぶされそうになることがあるかも知れません。
けれどもイエス様は私たちが負えない重荷を無理やり負わせなさるようなお方ではなく、一日の苦労はその日の分だけで十分である。」とおっしゃっておられます。
何故明日を心配しなくてよいのか:その日一日の苦労で十分であるから
III.神様を第一として、今を生きる事を主は求めておられるから
「まず神の国と神の義を求めなさい」33節
イエス様が私たちに求めておられることは、明日を心配することではなく、 「今」というこの時を、「神様を生活の中心に据えて生きる」 ことを求めておられます。
私たちは明日を生きる事は出来ませんから今というこの時をどう生きるかによって、どのような明日を迎えるかが決まります。
イエス様は約束なさいました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」33節
私たちが今日という日を、イエス様を生活の中心に据えて生きる時、明日に必要なすべてのものは与えられると共に、明日生きるために必要な力と平安と確信に満たしてくださいます。
コロナウィルスが蔓延して私たちの明日への希望を奪い取られてしまいやすいご時世にあってもイエス様は「明日のことまで心配しなくてよいのです。」「苦労はその日その日に十分あります。」「だからまず何よりも神の国と神の義を求めなさい。」と私たちに求めておられます。
今日という日を明日の心配に時間を費やすのではなく、神様を生活の中心に据えて前進して行きましょう。
(今井)

那覇・東風平オンライン礼拝説教 4月26日

詩篇46篇 「静まって神を知る」

苦難の中にあって心に留めるべき3つのこと


I.恐れることをやめなさい


ここに「やめよ」と書いてあります。
イスラエルがアッシリヤに包囲されたときにヒゼキヤもイスラエルの民も恐れおののきました。
敵に囲まれて太刀打ちできない。もはやなすすべがない。

そのような絶体絶命の中にあって、神様は心騒がすのをやめなさいと語られました。
私たちの心が不安と恐れにいつまでも支配されてしまいますとストレスがどんどん蓄積されて行って、人に対して冷たくなっていくことがあり得るということです。
けれどもイエス様は仰います。どのような苦難の中にあったとしても恐れることをめなさいと。


II.主の前に静まりなさい


「やめよ」というみことばは「主の前に静まりなさい」とも訳されています。
口語訳聖書では、「静まってわたしこそ神であることを知れ。」と訳されていますし、文語訳聖書でも「汝ら静まりて、我の神たるを知れ」と訳されています。
ヒゼキヤは国が危機的な状況にある中で最初にしたことは、アッシリヤに多額の和解金を払ってこれ以上苦しめないで欲しいと懇願しました。

けれどもお金では真の解決がないことが分かって、神様により頼むしかないと悟って神様の前に静まって祈りをささげました。
私たちが苦難の中にある時に心に留めるべき二つ目は 「主の前に静まりなさい。」という事です。
このような苦難の中にある時こそ、神様の前に静かにじっくりと祈る時を持ったり、聖書のみことばに触れて、神様は何と語っておられるのか、静かに耳を傾ける時を持ったりすることが大切です。
主の前に静まる時を持つときに、不安や恐れは慰めや平安へと変わります。
最初に語った恐れることを止める鍵は実はここにあります。


III.主の前に静まって神様の素晴らしさを知りなさい


「わたしこそ神であることを知れ」
イザヤ書37章の16~20節には、ヒゼキヤの祈りの内容が詳しく記されています。

ヒゼキヤは危機的状況の中で、神様の前に静まって祈った時に、彼は祈りの中で「あなただけが主です」と繰り返しています。主の前に静まったことによって神様の素晴らしさを彼は体験しました。
私たちも主の前に静まる時に、神様がどんなに偉大でどんなに素晴らしいお方で、どんなに礼拝するに値するお方であるかをより深く知ることが出来ます。
46篇には神様の素晴らしさが繰り返し記してあります。

神様は私たちの避け所であり、力であり、苦しむときいつも助けの手を差し伸ばしておられるお方であり、どのような苦難からも助けてくださる全能の神様であり、苦難の真っただ中にあっても、クリスチャンと共におられるお方であることが約束されています。
そのような素晴らしい神様であることを私たちがより深く心に味わう時にどのような苦難の中にあっても、神様から平安を頂き、力を頂いて、苦難を乗り越えて行くことができると聖書は約束しています。
たとえ天地がひっくり返ることがあっても、たとえ洪水や大地震が襲ったとしても、恐れることをやめ、神様の前に静まって神様の素晴らしさを日々味わいながら、なおこの難局を乗り切りましょう。
(今井)

1.ご一緒に祈りのときを持ちましょう。

2.インマヌエル讃美歌155番「悩むものよ」ご一緒に賛美しましょう。

3.ご一緒に頌栄を賛美し祝祷をおささげします。