2021 9 5那覇・東風平 主との関係によって生み出される喜び

祝福ある生涯の秘訣②  「主を喜びとせよ」  詩篇37篇  連続説教  (2021/9/5)

Ⅰ.人生には、喜べない状況に直面することがある 私たちは人生において、嬉しいこと、喜ばずにはいられないこと、感謝せずにはいられないこと、そのような事が何度もあるのではないかと思います。 そのような時、私たちは、これも神様からの祝福であり、ご褒美であることを覚えて、神様に感謝をささげて大いに喜びを味わうと良いかと思います。

けれども、それと共に、人生には、とても喜べない状況に直面する事もしばしばあります。 詩篇37篇を記したダビデの生涯がそうでした。 ダビデの生涯は祝福の生涯でしたけれども、試練の生涯でもありました。

いのちを狙われ、殺されそうになったり、裏切られたり、理不尽すぎる苦しみに直面したりしました。

イエス様がヨハネの福音書16章33節で「世にあっては苦難があります」と語っておられるように、 私たちは人生において、とても喜べないと思えるような苦難の中に置かれることがしばしばあります。

けれども今日のみ言葉には「喜びとせよ」と記されています。 新改訳聖書には747回「喜び」という言葉が使われています。しかもとても喜べないような状況の中で「喜びなさい」と聖書は命じています。 これは辛いのに無理してでも「喜びなさい」と言っているのではありません。 けれども今朝の聖句には、喜べない状況にあるときにも、喜ぶことができる秘訣が記されています。

そのことを第二番目にみていきます。

Ⅱ.神様のうちに喜びを見出しなさい

4節に「主を自らの喜びとせよ」と記してあります。 ここで使われている「喜び」という言葉はヘブル語では、「神様との関係によって生み出される喜び」という意味があるそうです。

「主を自らの喜びとせよ」とは、神様との関係によって喜びを見出しなさいという意味です。 主を喜びとするときに、私たちはたとえ辛い中にあっても喜ぶことができるようなそのような喜びを神様は与えてくださいます。

辛い中にあっても祈りの中で生み出される喜びというものがあります。

みことばを黙想している中で与えられる喜びというものがあります。 また聖霊の御声に従うことによって与えられる喜びというものがあります。

このように  「主を自らの喜びとせよ」とは、神様との関係によって喜びを見出しなさいという意味です。

今、厳しい試練の中に私たち人ひとり置かれています。 日々目まぐるしく移り変わる状時代にあって目の前には様々な苦難が蓄積しているかも知れません。 厳しい時代の中で、苦難に押しつぶされそうになって、不安や恐れを覚えたり、希望を見失ったりしてしまって、い

つしか、神様の内にある喜びを見失ってしまっているかも知れません。

けれども今朝のみことばは、直面している問題によって一喜一憂するのではなく、神様との関係によって生み出さ れる喜びを見つけなさいと語っています。

「主を自らの喜びとせよ」と今朝のみ言葉は語っていますから、苦難によって一喜一憂してしまうような 一時的な不安定な喜びではなく、イエス様との関係によって生み出される喜びを見出しながら、この時代を歩んで参りましょう。(今井)

2021 8 29オンライン 心を悩ますな これが祝福の生涯の秘訣の第1

祝福ある生涯の秘訣①  「心を悩ますな」  詩篇37篇  連続説教  (2021/8/29)

Ⅰ.いかなる時にも心を悩ませてはならない。 ダビデは、悪を行う者たちが栄える現実を見たり、悪意をもってダビデ自身に理不尽な攻撃してくる現実 に直面して、怒りを覚えたり、妬みを起こしたり、恐れたり思い煩ったり、心を悩ませずにはいられませんで した。

そのような現実の中で彼は、自分自身に言い聞かせるかのように「心を悩ませてはならない」と1節、7 節において訴えています。

いかなる時にも「心を悩ませてはならない」  これは聖書全体が私たち一人一人に語っているメッセージ です。

イエス様ご自身も「何事も思い煩ってはならない」  「恐れてはならない」  「心を騒がせてはならない」と 繰り返し語っておられます。

箴言4章23節にこのようなみことばが記されています。

「何を見張るよりもあなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」 私たちの心の中が悩みに支配されてしまうことがないように、心を見守っていかなければなりません。

Ⅱ.心を悩ませてしまう原因はどこにあるのか          神様を見失う事 これは聖書の一貫した真理です。 アダムとエバは、神様の戒めを破って、神様から離れて神様を見失いました。そこから彼らは悩み苦しむ ようになりました。 エジプトを脱出したイスラエルの民もそうでした。彼らは神様の恵みを忘れて、神様を見失ったときに、怒 りやいらいら、思い煩い、恐れが支配するようになりました。 ダビデも、神様が共におられるという確信があるときには、彼は大胆に恐れることなく行動していました が、直面している問題に目が奪われ、神様を見失ったとき、彼は、悩み苦しみました。 エリヤもイゼベルの怒りをかったとき、怖くなって逃げてホレブに身を隠しました。バアルの預言者と対決 し、祈りによって雨を降らせた同じエリヤとは思えないほど、彼は憶病になっていました。 どのような危機的な状況の時にも、神様だけを見上げていたエリヤが神様よりも直面している問題に心 を奪われて、神様を見失ってしまった事の中に彼の悩みの原因がありました。

私たちが直面している問題ばかりに心を奪われて、神様を見失ってしまう時、心は悩み苦しみます。 今、置かれている現実がどのように深刻であったとしても、神様が私と共におられるという信仰に立つとき、私たちの心は思い煩い、悩みに心を奪われてしまうことから守られます。

Ⅲ. 厳しい現実の中で今なすべき事は、神様が共におられるという実感を深めて行くこと まさに今、コロナという大きな戦争の真只中で、時代は違うステージへと入りました。 このような時代だからこそ、私たちが忘れてはならないことは、いかなる時にも神様が共にいてくださると いう実感を日々深めていくという事です。 神様がいつもともにいてくださるとい実感を深めていくために、朝毎の祈りをもっと充実させていく事に心 を用いたり、オンラインであっても礼拝を心からささげることに心を用いたり、聖書のみことばを日毎に、思 い巡らしたりと、基礎的な事をこつこつと持ちながら、神様が共におられるという実感を深めていく必要が あります。

私たちが心を悩ませてしまう原因は、イエス様を見失ってしまうところにあります。 今置かれている現実がどのように厳しくても、共におられるイエス様を見失うことがないように、常にイエス様を心に留めながら歩んで参りましょう。                                                                                            (今井)

2021/8/22 那覇・東風平オンライン礼拝

「傷んた葦を折ることもなく」                           イザヤ書 42 章 3 節

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」  イザヤ42章3節

イザヤ書はイエス様の預言が多く記されている書として有名な書簡ですが、この42章もそうです。 マタイ12章17節では、イザヤの預言したこの箇所が成就したことが記されています。 今日はここから二つのことを見ていきます。

Ⅰ.傷んだ葦、くすぶる燈心の意味 葦という植物は、とても細くて、風が吹くとすぐに折れかかってしまうもろい植物でした。 ですからすぐに傷んでしまいました。 当時のイスラエルでは、葦の茎を使って籠を作ったりしていたそうですけど、傷の付いた葦は、使いものにならなくて捨てるしかなかったそうです。 それから「くすぶる燈心」と書いてありますが、当時の灯りは油が燃料となるランプを使っていましたから、燃料の

ですから傷んだ葦もおられて当然ですし、くすぶる燈心も消されて当然でした。 けれどもイエス様はそうなさらなかった。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなかった。そのことを イザヤは預言したわけです。

つまり「傷んだ葦」「くすぶる燈心」とは、生きることに失望して今にも倒れそうな人々の状態を表わしています。

多くの人が苦しい現実に立たされて、まさに「傷んだ葦、くすぶる燈心」のように、直面している現実に立ち向かう 気力を失っています。

「傷んだ葦、くすぶる燈心」  とは今にも折れかかっている人々の心を表しています。

Ⅱ.イエス様は、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない愛のお方

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」3節 イエス様は、希望を失って生きることに疲れて今にも倒れそうになっている者たちを決し見捨てることをなさらず、

そのような私たちの弱さに共感して下さり、立ち上がらせてくださるお方です。

イエス様は復活後にペテロに現れてそのように扱われました。

「あなたはなんていうことをしたのか」とペテロを責める言葉は一言もおっしゃらずに、「あなたはわたしを愛します か」と問われて、「あなたはわたしに従いなさい」とペテロに立ち直るきっかけをお与えになりました。

ペテロはそのイエス様の愛に触れたことによって、彼は立ち直ることが出来ました。 イエス様は、いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともないお方です。

イエス様は、取税人ザアカイに対しても、サマリヤの女に対しても、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消 すこともなく、気落ちしている者たちにやり直す機会を与えてくださいました。

イエス様は私たちにも同じように扱ってくださいます。 コロナ禍にあって、自分の力ではどうにもならない苦難の中に置かれて、悩みに打ち負かされて「傷んだ葦」「くす

ぶる燈心」のように今にも倒れてしまいそうになることがあるかもしれません。 けれどもイエス様は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともないそのような愛のお方です。ですか

ら、今もなお、失望している者たち一人一人が倒れてしまうことがないように、「あなたが直面しているその悩みを私 のところに持って来てごらん。」と語っていてくださり、乗り越える力を与えてくださるお方です。

私たちが今、倒れそうになるほどの、悩み、苦しみの中をたとえ通っていたとしても、イエス様は、「傷んだ葦」を折る こともなく、「くすぶる燈心」を消すことをなく、私たちが倒れることがないように私たちの悩みに共感し、力づけ、立ち 上がらせてくださるお方です。

そのようなイエス様に、これからもお頼りして歩んで行きまししょう。                                                                                           (今井)

2021 8 8オンライン礼拝 主は倒れかかっている者を顧みてくださる

「傷んた葦を折ることもなく」                           イザヤ書 42 章 3 節

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」  イザヤ42章3節

イザヤ書はイエス様の預言が多く記されている書として有名な書簡ですが、この42章もそうです。 マタイ12章17節では、イザヤの預言したこの箇所が成就したことが記されています。 今日はここから二つのことを見ていきます。

Ⅰ.傷んだ葦、くすぶる燈心の意味 葦という植物は、とても細くて、風が吹くとすぐに折れかかってしまうもろい植物でした。 ですからすぐに傷んでしまいました。 当時のイスラエルでは、葦の茎を使って籠を作ったりしていたそうですけど、傷の付いた葦は、使いものにならなくて捨てるしかなかったそうです。 それから「くすぶる燈心」と書いてありますが、当時の灯りは油が燃料となるランプを使っていましたから、燃料の油が燃え尽きて燈心がくすぶると芯から煙ばかりが出るので火は消されました。

ですから傷んだ葦もおられて当然ですし、くすぶる燈心も消されて当然でした。 けれどもイエス様はそうなさらなかった。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなかった。そのことを イザヤは預言したわけです。

つまり「傷んだ葦」「くすぶる燈心」とは、生きることに失望して今にも倒れそうな人々の状態を表わしています。

多くの人が苦しい現実に立たされて、まさに「傷んだ葦、くすぶる燈心」のように、直面している現実に立ち向かう 気力を失っています。

「傷んだ葦、くすぶる燈心」  とは今にも折れかかっている人々の心を表しています。

Ⅱ.イエス様は、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない愛のお方

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」3節 イエス様は、希望を失って生きることに疲れて今にも倒れそうになっている者たちを決し見捨てることをなさらず、

そのような私たちの弱さに共感して下さり、立ち上がらせてくださるお方です。

イエス様は復活後にペテロに現れてそのように扱われました。

「あなたはなんていうことをしたのか」とペテロを責める言葉は一言もおっしゃらずに、「あなたはわたしを愛します か」と問われて、「あなたはわたしに従いなさい」とペテロに立ち直るきっかけをお与えになりました。

ペテロはそのイエス様の愛に触れたことによって、彼は立ち直ることが出来ました。 イエス様は、いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともないお方です。

イエス様は、取税人ザアカイに対しても、サマリヤの女に対しても、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消 すこともなく、気落ちしている者たちにやり直す機会を与えてくださいました。

イエス様は私たちにも同じように扱ってくださいます。 コロナ禍にあって、自分の力ではどうにもならない苦難の中に置かれて、悩みに打ち負かされて「傷んだ葦」「くすぶる燈心」のように今にも倒れてしまいそうになることがあるかもしれません。 けれどもイエス様は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともないそのような愛のお方です。ですか

ら、今もなお、失望している者たち一人一人が倒れてしまうことがないように、「あなたが直面しているその悩みを私 のところに持って来てごらん。」と語っていてくださり、乗り越える力を与えてくださるお方です。

私たちが今、倒れそうになるほどの、悩み、苦しみの中をたとえ通っていたとしても、イエス様は、「傷んだ葦」を折る こともなく、「くすぶる燈心」を消すことをなく、私たちが倒れることがないように私たちの悩みに共感し、力づけ、立ち 上がらせてくださるお方です。

そのようなイエス様に、これからもお頼りして歩んで行きましょう。                                                                                           (今井)

2021/6/20那覇・東風平礼拝 苦難に勝利するために必要な力を注がれる主

「敵をよそに食卓を整えてくださる主」 詩篇23篇連続講解説教⑦

「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え」詩篇23:5

Ⅰ.「私の敵」とは私たちにとって何なのか  「私の敵をよそに」

ダビデは、多くの敵に常に狙われていました、彼は敵が多い中で神のみ守りとみ助けなしには、生きてはいけないことを痛感していました。私たちにとって「私の敵」とは何を表しているしょうか。

新共同訳聖書では、「私の敵」というみことばを「私を苦しめる者」と訳しています。

「私の敵」を私たちの生活に置き換えますと、まさに私を苦しめるすべてのものと言い換えることができます。

私を苦しめるものとは何でしょうか。

それは、私たちを信仰から引き離そうとするサタンの妨害がその一つです。信仰生活は祝福にあふれていますから、サタンは、手を変え、品を変え、必死になって攻撃して妨害してきます。これがクリスチャンにとって常に直面する大きな敵です。

また「私の敵」「私を苦しめるもの」というときに、人生の苦難があります。苦難、それは様々な形で、私たちの信仰生活に襲いかかってきます。苦難は普通、私たちのメンタルの部分にまで大きなダメージを与えます。

昨日のYahooニュースに、深刻な記事が載っていました。

今、日本においてはコロナ禍になってから、うつになる人の割合が2倍に増えたそうです。イギリスにおいても2倍、アメリカにおいては、3.5倍に増えたという統計が出ていました。

コロナ禍になって、多くの人たちのメンタルに大きなダメージを与えています。

多くの人たちが失業したり、倒産したり、お先真っ暗のような中を通過している人たちも増えていますし、医療従事者の方にとっては、過重労働で、多くの看護師さんたちが止めてしまうケースも出てきています。コロナによって、多くの人たちが、心に不安を抱えているような現実です。

「私の敵」と「は私たちを苦しめるすべてのもの」です。

Ⅱ.主はすべての必要を満たしてくださる   「あなたは私の前に食卓を整え」

「食卓を整え」とは必要を与えてくださるという意味です。

羊飼いが羊に必要なものを与えるように、真の羊飼いイエス様は、私たちの物質的な必要、霊的な必要を豊かに与えてくださるお方です。

 コロナ渦になっての気がかりの一つは、教会経済の必要でした。けれども生きて働く神様は、、昨年も一年間すべての必要を満たしてくださいましたし、今年も今まですべての必要を与えてくださいました。

  神様は、私たちの必要、物質的な必要はもちろんの事、霊的な必要も満たしてくださるお方です。

Ⅲ.敵をものともしないほどに、すべての必要を満たしてくださる主

「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え」

今までの新改訳では「私の敵の前で」と訳されていましたが、新改訳2017に変わってから「私の敵をよそに」という表現に変わっています。

「よそに」という日本語を辞書で確かめましたら、「顧みることなく放っておく」と訳されていました。ですから新改訳2017では、敵を全くものともしないような表現が使われているわけです。

  真の羊飼いイエス様は、敵をものともしないほどに、すべての必要を満たしてくださるお方です。

ローマ人への手紙8章35~38節で使徒パウロは彼を苦しめるありとあらゆる苦難の中にあっても「私はキリストによって、敵をものともしないほどに圧倒的に勝利することができた。」と宣言しています。

私たちも信仰生活において、私たちを苦しめるどのような敵を前にしても、神様が必要なすべてを満たしてくださるので、すべての敵に対して、圧倒的な勝利を神様から頂くことができます。

今、私たちを苦しめている敵があろうとも、全く心配には及びません。真の羊飼いイエス様は、私たちが敵をものともしないほどに霊的必要(聖霊の力)を満たしてくださり、圧倒的な勝利を与えてくださいます。

 「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え」と約束されているからです。            (今井)

2021/ 6 /13那覇・東風平礼拝 むちと杖による主の愛はこの上ない慰め

「むちと杖による慰め」 詩篇23篇連続講解説教⑥

「あなたのむちとあなたの杖 それが綿派の慰めです。」4節後半

Ⅰ.羊飼いのむちと杖とは何を意味しているのか

むちとという言葉を聞きますと羊を打ちたたく虐待の道具のように勘違いしやすいですが、もちろん虐待するための道具として使っていたわけではありません。

 羊を狙って襲い掛かってくる野獣を撃退するための道具として使っていました。

 羊を打ちたたくためではなく、外敵と戦って羊を命がけで守るための道具です。ここに羊飼いの羊に対する愛情と優しさが現れています。

 そして杖の方は、羊が穴や谷底に落ちたときに、丸くなっている取っ手の部分に羊の体に引っかけて、羊を穴から引き上げて救出したりするために使われていました。

また羊が横道にそれたときに杖をあてて羊を元の道に引き戻したりする道具だったそうです。

 そのようなわけでむちも杖も弱い羊を全力で守るための道具でした。

 ですから、羊飼いのむちとつえは羊に対する心配りと愛情の象徴でした。

  同じように真の羊飼いイエス様も、羊のように弱い私たち愛してくださって、私たちが正しい道から逸れたり、危険な道に行ってしまう事がないように、いつも私たちのこと心をかけていてくださるお方です。

 むちと杖の中に、私たちの事をいつも心にかけていて助けてくださるイエス様の愛が象徴されているわけです。

 羊飼いのむちと杖、それは私たちの事を片時も忘れず、いつも心にかけて助けてくださるイエス様の愛が象徴されています。

Ⅱ.羊飼いのむちとつえはこの上もない慰めである

 「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。」

 詩篇23篇を記したダビデ自身が、死の陰の谷を歩むような危険な状況の中で、迫ってくる敵から神様が助けて守ってくださり、確かな道へと導いてくださった事実を知って、ダビデはこの上もない慰めを頂いて、彼は力づけられ試練を乗り越えることができました。

ダビデのように、まことの羊飼いイエス様のむちと杖は、クリスチャンにとって、この上もない慰めとなります。

 羊飼いが、むちと杖をもって命がけで羊を守ってくださるように、真の羊飼いであるイエス様は私たちの事をいつも心にかけていて助けてくださる愛のお方だからです。

常に弱い私たちに心を配っていてくださって、私たちがあらゆるサタンの攻撃や人生の試練に打ち負かされることがないように助けてくださり、正しい道から脱線することがないように、見守ってくださるお方、それがイエス様です。

 むちと杖の象徴であるイエス様の愛に私たちが触れるときにこの上もない慰めを受けます。

私たちが辛い中を歩むときにも、私たちの事を心にかけていてくださり、必要な助けを与えてくださるイエス様の愛に触れるときに、私たちはこの上もない慰めを体験します。

私たちは、何気ない日常の出来事の中にも、大きな困難や試験の中にも、イエス様は、片時も離れず、弱い私たちを心にかけ、見守っていてくださり、助けてくださる事を忘れてはならない事です。

そのイエス様の愛に私たちが触れるときに、他の何によっても得られないのこの上もない慰めを神様によって体験することができます。

羊飼いのむちと杖、それは真の羊飼いイエス様の私たちへの愛の象徴です。

羊飼いがむちと杖をもって、羊から片時も離れず、羊に心配り、常に敵から守り、助けるように真の羊飼いイエス様は、私たちがどのような状況に置かれていたとしても、片時も私たちから離れることなく、私たちの事に心を配り、助けてくださる愛のお方です。

そのイエス様の愛に触れるとき、私たちの心はどれだけ慰められることでしょうか。

真の羊飼いイエス様の愛を覚えて、イエス様に感謝をささげ、これからもイエス様についていきましょう。

(今井)